top of page

博士号取得までの長い道のり


 

1. はじめに
 

 私は、筑波大学生物科学研究科に2001年4月に3年次編入(5年一貫制)をし、それから3年後の2003年3月に学位(博士(理学))を授与されました。その博士後期課程の3年間に得た経験と達成感は、私個人にとってはとても大きな財産であり、それによって今後、職業的研究者として生きていく覚悟をすることができました。もちろん、博士号取得自体は、一人前の研究者になるための第一歩にすぎないことは承知してはいますが・・。しかしながら一方で、その3年間は主に体力的に、時に精神的に、とても長く苦しい道のりでもありました(もちろん、今思えば楽しいことも多かったのですが)。特に、私のように博士後期課程から研究室を移った変わり者は、研究のテーマや手法が少なからず変わってしまいますし、そもそも物品の購入の仕方からゼミの進め方までわからないことだらけで、効率よく仕事ができるまでなんだかんだ言って余計な時間がかかってしまいます。そのため、所定の3年間で博士号をとるには、相当なハードワークをこなす必要がありました。以下の文章は、あくまで個人的な記録ではありますが、これから博士後期課程に進む、もしくはすでに在籍している学生の皆さんの一助になることを願い、私が博士後期課程で取った行動と思ったことについて記します。

 

2. 修士課程のころ
 

 修士では、鳥取大乾燥地研の農業気象の研究室に所属していた。そこでは、ソルガム(高粱)を疎らに植えた畑からの蒸発散量について、微気象学的な方法で測ったり、Penman-Montiethベースのモデルを使って推定したりしていた。M1の終わり頃には、陸面水・熱の地表面-大気間の交換について、SiB2のようなGCMの陸面モデルを使ってグローバルに水熱循環を推定してみたいなと思っていて、ぜひ博士後期課程(以下で、博士課程と呼ぶ)に進んで研究したいと思っていた。そこで、春から夏頃に旧帝大の気象・水利工学系の研究室を全部で5つくらい見学して回った。そして、第一候補として、東大生産研の某研究室に決めて、9月に試験を受けたが、不勉強がたたってあえなく不合格。直後は、すごーく落ち込んで、まるでこの世の終わりでも来たような気分だった。研究室自体はとても魅力的だったので、一年浪人して来年再挑戦する手も合ったが、まだほとんどの大学の博士課程は、試験が2・3月にあり、とりあえず他の研究室も考えることにした。
 そうこうしているうちに11月になり、修論のまとめも佳境に入り、モデルを本格的にいじりだすことになった。その中でも、植物に関するパラメータ(気孔抵抗や水ポテンシャル)について、いろいろといじっているうちに、地表面と大気との間の物質の交換は、植物がかぎを握っていることを強く感じた。そこで、水・熱の循環にさらに植物生態を取り入れた形での陸面モデルを扱っている研究室を探してみると、及川研が真っ先に挙がってきた。というか、他にはあまり見当たらなかった。ちょうどその12月に筑波に学会発表に行く予定があったので、自分の研究興味についてと先生にお会いしたいという内容のメールを送ったら、10分くらいで承諾のメールが返却されてきた。しかも、その内容が、研究室にぜひ入ってくださいと言わんばかりのもので、まだ会ってもいないのに、有名な先生から誘われていると思って(たぶん勘違い)、気持ちがググッと筑波に引き寄せられた。そして、2月の編入試験も何とか通り、4月からの及川研に行くことが決まった。親からは、博士課程に進むのもいいけど、両親が定年するまでの3年間しか援助ができないので、3年以内に卒業するようにとしつこく言われた。もちろん、この時には当然3年で卒業するつもりだったが、それはとてもつらいことだったのねと後で泣くことになる。

 

3. いざ、研究室に入ってみると
 

 意気揚揚と研究室に入ってみると、まず驚いたのは、ほとんどの学生が新人である上に、新入生の私が、研究室の実質最上級生になってしまったのだ。これは、結構プレッシャーだった。植物の生態のことなんか、ぜんぜん知らないのにゼミ等でそこそこちゃんとしたコメントとかしていかなくてはとか、下級生の卒研発表を全部見てやらなきゃいけないとか早くも考えていた。
 また、他にもカルチャーショックがあった。研究室の学生が生農棟、理修棟、陸環研の三つに分かれて机を持っていて、週二回のゼミ以外にほとんどお互いに顔を合わせる機会がなかったことだ。普通の大学の研究室は、だいたい同じ棟の同じフロアに全部の部屋が集まっているもので、そこで学生同士のバカ話をはじめとした意思疎通や、研究上の苦労を共有することができると思うのだが、筑波はそうなっていなかった。特に、一年目に陸環研にいた私は、取り残されたような感覚を受けたし、実際先生に顔を合わせること少ないと、モチベーションは下がるのが普通であると思う。そこで、夕方に三箇所の部屋に電話をかけて、晩飯をなるべくみんなで食べるようにした。これはとてもよかったみたいで、修士の学生さんたちとの意思疎通ができるようになって、自発的にいろいろと修論の結果を見せにくる人も出てくるようになった。
 以上は、研究室のことだが、私個人の研究については、中国の青海省というところにある高山草原にて、炭素循環を推定するモデルを作るということをテーマにすることにすぐに決まった。これについては、すでに研究室に入る前に環境研の青海草原のプロジェクトを紹介されていて、そちらの方で、がんばることになったわけだが、人手が少ないので観測も手伝ってほしいとのことで、現地に行くことになった。まあ、確かにモデル用のデータをもらうだけでは申し訳ないので、これまでの修士での微気象観測での経験もそれなりに役に立つだろうし、むしろフィールドは好きなので二つ返事で引き受けた。

 

4. チベットでの研究生活 
 

 環境研のTさんを代表とするプロジェクトでは、カウンターパートである中国科学院の研究所内の草原において、渦相関法という微気象学(地表面付近の気象を扱う学問)的な方法で、大気と地表面間のCO2・熱・水蒸気のやり取りを直接測定することが、プロジェクトの中心的な課題になっていた。そこで、D3(普通の博士後期課程で言うD1)の夏に、それらの観測システムを立ち上げるために数人のメンバーと現地に赴いた。北京から、中国国内線に乗って2時間、青海省の省都である西寧にまず向かって、そこからはバンに乗って3時間半で現地に到着することができた。途中、標高3800mの峠を通っていくのだが、学部時代の登山サークルでの最高到達点を軽々と車で超えてしまう。測定地点は、標高3200mのところにある草原で、はじめの数日は酸素の薄さのために、少し頭痛があったり疲れやすかったりすることがあった。しかし、慣れてくると、景色はいいし、食事はうまいし、結構快適に感じてくるようになった。ちなみに、冬にも現地に2度ほど行ったが、こちらは快適とは言えず、外気は氷点下20度を下回るほどの寒さで、研究所内の暖房も不十分なので、室内でも寒く、外で作業する格好のまま夜は寝たりしていた。
 これらフィールドワークでは、学部時代の登山サークルでの経験がとても役に立った。サークルでは、冬も山スキーで1シーズンあたり10本くらい登山していたし、夏は夏で多少の沢登りも経験していたので、寒いとか重いとか汚いとかで困ったことはほとんどなかった。ただ、現地に滞在している間は、貴重な時間を少しでも有効に使おうとして、毎晩遅くまで作業したり、データ解析をしたりした上に、休日を取らずに作業していたので、毎回の約一ヶ月くらいの滞在の最後のほうで、体力的にへたって来てはいた。最終日の飲み会では、いつもは問題なく飲めるくらいの少量の酒で、速攻酔っ払ってつぶれたりしていた。
 結局現地へは、博士課程3年間に、夏・冬それぞれ二回ずつ、いずれも一ヶ月程度で調査に行った。たいていは、フラックスタワーの維持管理をしていたが、チャンバー法での冬季の生態系呼吸の測定やバイオマス・土壌サンプリングなどもしていた。また、筑波大での隣の研究室から参加していた同期のH君の手伝いで、近くの湿地に行ってバイオマスやガスサンプリングなどもしていた。もちろん、体力的には結構大変だったが、フィールドワークは楽しかった。特に、H君とは1/3くらい行動をともにしていたので、極限的な状況の中で、観測したりや飯を食たべたりしながら、研究のことから私生活のことまで、いろいろと語り合った。このことは、非常に有意義だったし、とても楽しかった。もし、彼がいなかったら、もっと精神的に追い詰められた状況になっていただろう。

 

5. 投稿論文執筆
 

 観測スタートから丸一年たったころ(D4の冬)に、チベットについて一本目の投稿論文を書き始めた。これまで測定してきた現地のフラックスデータを使って、CO2交換の季節変化や環境要因に対する反応を示す速報的な内容のものであった。チベット高原でのこういった内容の観測は、これまで行われてこなかったので、我々のデータの希少性は、必ず認められると確信していたし、どっかの雑誌には載るだろうなとは思っていた。しかし、Tさんとの話し合いの結果、フラックス研究の総本山的な雑誌である、Agr.For.Met.誌に出すことになったときには、いささか不安を覚えた。なぜなら、修士論文の内容で、一度当該雑誌にsubmitして、半年待たされた挙句に、あえなくrejectを食らっていたからだ。だからといって他に適当な国際誌はあまりないので、とにかくできるだけの多くの解析をして、図も鬼のように作ってストーリーを作り、なんとか年度末に投稿にこぎつけた。この際には、Tさんに何度もDiscussionをしていただいたり、論文を添削していただいたりと、大変お世話になった。一生頭が上がらないです、はい。また、毎日は大げさかもしれないが、気合を入れて論文を書きをする日には、東北大酒井先生の「これから論文を書く若者のために」を必ず読んでから書いていた。知っている方も多いとは思うが、これはとってもいい本なので、おすすめである。
 一方、修論の内容の論文も、いくらか修正し、Agr.Water Managementという農業水利系の国際誌に2月中頃に投稿することができた。これで何とか、卒業に必要な2本分の投稿にはこぎつけたものの、問題は最終的に受理されるかということと、その日が修了年度内での卒業の締め切り(翌年1月6日)に間に合うかということであった。ちなみに、筑波大の生物科学研究科は、私が知るかぎり我々の分野において、もっとも修了要件が厳しいところであると思う。ここでの博士課程修了には、国際誌2本分のacceptの証明が必要なのである(後で聞くと、国際誌ではなく欧文論文2本だったみたいで、国内誌でもよかったのかもしれない。もちろん、同級生に国内紙で卒業するひとはいなかったが・・・)。私の研究科は、比較的論文の出やすい生化学系の研究室が多いために、そのようになったのかもしれないが、そのことについて入学してから気が付いた私は、最後の大学院選びも間違っちゃったかもとしばらく落ち込んだのを覚えている。
 D5の春-夏にかけては、現地の光合成と生態系呼吸の季節変化について、測定データを利用して、3本目の論文を書いていた。そして、7月はじめにJGR誌に投稿した。これで、先に出した論文がrejectを食らっても、カバーできるのではと少し安心した(もちろん、多少卒業の時間は伸びるだろうが)。ちなみに、当初のテーマであったモデルシミュレーションのほうは、このころすっかり影を潜め、とにかく卒業に向けて、論文化しやすい観測データの解析がメインの仕事になっていた。まあ、観測データがなければモデルも作りようがないという事情もあるが。

 

6. 卒業へ
 

 3本目の投稿を終えて、8月の半ばくらいから、博士論文を書き始めていた。指導教官には、投稿論文の内容があるんだから、簡単に書けるでしょうと言われたが、論文一本を一章ずつに割り当てただけのつながりの薄い博論にはしたくなかった。そこで、今までやってきたことを再整理して、観測だけでなく一応それなりにモデルも結果を作って、それを付け加えた内容を構成した。そして、一章づつ着実に原稿と図表を作っていき、10月半ばまでには草稿を完成させた。もちろん、その間に指導教官とTさんのチェックを受けていた。11月はじめの予備審査での発表も、研究室の皆様や農環研の皆様に発表練習を聞いていただいたおかげで、何とか通ることができた。
 さて、投稿論文のほうだが、チベットのフラックスに関する一報目の論文が、5月末に返ってきた。結果は、Major revisionを要求された。とりあえず、rejectでなかったことで安心するとともにうれしさで舞い上がっていた。しかし、reviewerからのコメントに悩ましいものが多かった上に、返事の書き方もよくわかっていなかったので、直しは遅れて、再投稿は結局9月半ばになった。また、修論に関する2本目の論文も7月半ばくらいに、Major revisionで返ってきた。こちらも、直しのほうがなかなか進まなかった。reviewerが、私のひどい英語を見て、コメントをワープロ打ちするのをあきらめて、手書きでしかも大量のコメント(数えたら65個あった)を付けてきたのだ。それが、ぐちゃぐちゃの筆記体で、完全に解読するのに二週間くらいかかったのだ。しかし、なんとか予備審査の準備の合間をぬって、徐々に修正し、9月半ばに再投稿した。
 春は、意外と早く来た。2本目の論文のacceptの知らせが、10月16日に来た。1本目のチベット論文はTさんの力をだいぶ借りて書いたが、この2本目の論文は、ほとんど自分一人の力で書いたつもりなので、努力が報われたと共に、修士2年間の研究の方向性もそれほど間違っていなかったんだということが証明されたようで、とてもうれしかった。その日の晩御飯は、MOさんにご馳走していただいた。ごっつぁんでした。これで、11月7日の予備審査を受ける資格ができた。あとは、1本目の論文が通れば、ほとんど卒業への障害はなくなるのだが。しかし、これがなかなかこなくて、11月に返ってきたと思ったら、もう一度修正を要求され、結局12月末になってやっとacceptをもらうことができた。
 12月末時点ですべて卒業の要件は満たすことができ、1月の本審査で、主査・副査の前で発表して、晴れて卒業できることになった。さらに、10月末に面接を受けた地球フロンティアから、来年度の採用通知も来ていた。この辺から頭が遊びモードになって、年末年始は久しぶりに北海道に行って2年ぶりの山スキーをしたり、友達と飲みまわったりしていていた。人間不思議なもので、今までとってもつらかったことを全部忘れてしまって、バカになってしまった。本当は、3月までにもうひとつくらい論文を投稿するつもりだったが、結局は間に合わなかった。

 

7. おわりに
 

 なんとか、3年で卒業することができたわけだが、この3年間は、常に追い詰められている状況だったので、チベットに行っているとき以外は、土日も年末年始も関係なくほとんど研究室にいてデータ解析や論文書きをしていた。たぶん、寝ている時間も含めて6割以上は研究室ですごしていた気がする。むしろ、研究室に住んでいる状態に近かった。これは、まず体力的に、そして時には精神的につらい3年間であった。がまたそれは一方で、非常に自分を成長させてくれた3年間でもあったと思う。まさか、自分たちの分野ではランクが上位のAgr.For.Met.に自分の論文を載せることができるなんて、初めはまったく考えてもいなかった。これは指導教官によるさまざまな形での応援のおかげであることはもちろんのことだが、実質的な面では、環境研のTさんの協力が私にとっては大きかった。Tさんには最終的に、私の博論の副査にもなっていただいたのだが、実際、論文の書き方などは、ほとんどTさんから学んだに等しかったし、忙しい時間を割いて結果についてDiscussionしていただいたこともとってもありがたかった。また、助手のMさんや同級生のH君の存在も大きかった。MさんもH君も、同時期に外部大学からの赴任・編入学してきていて、特にH君は同じく研究室の最上級生であり、しかも研究サイトも同じという状況だったで、自分たちの研究や研究室の運営のしかたまで、あーでもないこーでもないと話し合ったことで、だいぶ救われた。筑波大という外部から隔離された環境に長くいると、自分の常識とここの常識とどっちが正しいのかわからなくなるときが、多々あった。特に私の指導教官は、あまりゼミなどの研究室の行事の運営や学生の研究生活に対して、口を出さないタイプなので、ばらばらに動いている後輩諸君をどうやってまとめていくかも大きな課題だったが、そんなときはMさんやHくんとよく話し合ったものです。
 ここまでをまとめると、博士号を取得するまでにあたっては、私個人のやる気や体力的ながんばりだけではたぶんうまくいかなかったでしょう。それには、さまざまな人たちとの出会いと協力があって、初めて成し遂げられたことであることは言うまでもないことです。後輩諸君にいえることとすれば、とにかく自分の研究についてほかの人と意見交換をすることです。また、それで少し厳しいことをいわれたくらいで、落ち込まないようにしましょう。その反対意見を取り込んで、新たな実験や解析をすることができる人だけが、着実に成長していけるんだと思います。研究者としてだけではなく、人間としての人格の裾野を広くするように心がけましょう。

 

番外編

やってよかったこと

  • 3年で卒業することを、最後まであきらめなかったこと。:D4の冬になっても一本も論文が掲載されていないどころか、投稿中の論文すらもなかったので、これはもう3年で卒業は無理かなと思ったことが何度もあった。しかし、そこであきらめずに、それこそ自分としては死力を尽くしてがんばったつもり。特に、D4の冬-D5の夏は、徹夜続きで、眠かった記憶しかない。おかげで何とか目標を達成することができたわけだが、実はその忙しい間にも、チベットに観測に行ったりしていた。どうして、あんなことができたのか今でも不思議だ。

  • 研究費とチャンスに比較的恵まれた研究室を選んだこと。:どんなにその人に学力ややる気があっても、一学生の頑張りではいかんともしがたいハードル(研究費や人脈)がたくさんあります。その点では、私は非常に恵まれました。修士まではお金のない研究室にいましたので、それらのハードルの高さを常に感じていました。こういうと俗物的な感じがするかもしれませんが、ポスドクになった今でもこの考えは間違っていなかったと思います。最近では、職業的研究者を目指すものにとって、ある程度打算的に研究室を選ぶことは、むしろ必然であるとも思っています。

  • 人に論文を見てもらうときには、体裁を完全(つまり、実際の投稿規程に合わせた書式や図の配置にした状態)に整えてから渡すことを心がけたこと。:これは、常識のようなことかもしれないが、気づいていない学生はおおいと思う。これをやっていないと、最終的にその人から原稿が返って来るのが遅くなるし、ストーリー以外の点ばかりにコメントがついてきてむなしくなるでしょう。

やって後悔したこと

  • 観測に力を使いすぎて、本来の目的であったモデル研究がおろそかになったこと。

  • 後半は特に、全精力を投稿論文に注いでいたので、学会発表を年に一回くらいしかしなかったこと。:はっきり言って投稿論文の方が大事だと思いますが、あまり人前にさらされるのを避けていると、自己満足な思考になるし、アイデアも枯渇すると思う。

  • 3年間を要領の良さだけで乗り切ってしまったこと。:卒業することに執着しすぎたような気が少しします。根本的な、Scientificな問題にももっと注意を払うべきだったのかなと、今でも思っています。

bottom of page